昭和21年、太平洋戦争の敗北で日本中が大混乱、国民は生きる希望を失っていました。「なんとかしなければ・・・」こうした中で、野田町体育協会、興風会、野田醤油体育部は起ち上がりました。
「日本の将来を担う青少年を健全育成し、敗戦日本を再建しよう」、昭和22年、野田体育会主催、毎日新聞野田専売店後援で野田-関宿間往復の中学駅伝が行われました。
昭和23年2月21日、東葛飾郡新制中学駅伝協会主催で、関宿-新川-野田間巡走の新制中学校駅伝競走が行われました。これが第1回目の東葛飾地方中学校駅伝競走大会です。関宿、二川、木間ケ瀬、川間、七福、野田、梅郷、福田、旭、新川の10カ町村から12チームが参加して始まりました。
生活物資が極度に不足していた時代なので、ランニングシューズはおろか、運動靴さえなく、選手たちは上履きの足袋を着用して砂利道を力走しました。
駅伝コースである新川(流山北部地域)をリヤカーで揺られた長い花嫁行列が通っていました。たまたまその時、選手の先頭が花嫁行列の前にさしかかりました。すると行列の歩みは選手に道を譲るために一時ストップ。選手団が駆け抜ける30分の会田、花嫁さんをリヤカーに置き去りにしたまま、走り去る選手に応援を続けてくれました。リヤカーの上の花嫁さんがポーとほほを染め、恥ずかしそうに手を振っていたのが印象的でした。なんと心温まる光景ではありませんか。
漫画家もろ・ただしさん作
第10回大会になると、東葛駅伝もようやくこの地方の”名物”として定着するようになりました。毎日新聞の社長がヘリコプターで飛来し、「祖国再建と郷土振興に役立つ東葛駅伝の成功を祈る」と書いたメッセージを、スタート前の大会会場に投下、参加選手一同を激励されました。東葛駅伝がそれほど各界の期待を担っていました。
選手のトップグループが、東武電車が走る柏駅構内の大踏切にさしかかりました。踏み切り番をしていた駅長がいきなり片方の手にしていた赤旗を大きく振り上げて、進行してきた電車にストップを命じたのです。
そして、片方の手で選手たちの踏切横断を誘導してくれるのですが、この間5分間ぐらい電車はストップ。おかげさまで、選手の一団は踏切でのロスタイムもなく、無事レースを続行することができました。電車の急停止にびっくりした乗客は東葛駅伝であることを知ってみんなが窓から顔を出し、手を振って声援してくれたものです。
柏大踏切
柏市教育委員会より
第2回大会から松戸・松戸神社-野田・愛宕神社(9区間)
第5回大会より、野田と松戸を交互にスタート・ゴールとする。(奇数回は野田がスタート)
第7回大会から野田-松戸両市役所間32.8㌔(8区間)
第14回大会から選手の走る距離を縮め、8区間から10区間になりました。
第19回・20回大会では、豊四季-小金間は国道6号を走りました。
第21回大会から常盤平支所がゴール(偶数回はスタート地点)となりました。また、国道16号を走る区間もありました。第22回大会からは、柏の荒久山、柏陸橋を第1次ゴール、第2次スタートとし、合計タイムをもって順位を決定をしました。
第28回大会までは柏駅のすぐそば柏大踏切(現在は廃止)を渡るコース。毎年常磐線と東武野田線の列車時刻を見計らってスタート時刻を設定。運悪く列車通過とかち合い、警報機の音を聞きながら足踏みをしてもロスタイムとはならないという際どいレース展開でした。
国道6号が4車線に拡幅されると、交通量の多い国道を横切るのがむずかしくなりました。このため、第29回から35回まではコースを分断し、野田市スタートの場合、道路西側の柏中を第1次ゴール、東側の柏三小を第2次スタート、松戸市金ケ作公園を第2ゴールとし、合計タイムで順位を決める変則コースを採用。「駅に沿って走ってこそ駅伝」という声も、増える交通量には逆らえませんでした。
進学率が高まるにつれ、高校受験対策としての措置でした。開催時期も2月から、1月、12月、11月と繰り上がり、第27回大会から10月開催が定着しました。
第5回大会
野田第一中3連覇
第9回大会
松戸市役所前スタート
第17回大会
野田市役所前スタート
第26回大会
松戸常盤平支所前スタート
年ごとに厳しさを増す交通事情により、公道駅伝の風物詩である監督やコーチによる自転車での伴走も、第48回大会(94年)を最後に廃止されました。
第9回大会 ラクダ坂
第18回大会 柏中優勝